嫌悪感とマイノリティ
「嫌いな人」という言い方はちょっと嫌だから、「苦手な人」という表現をつかう。
わたしは人を嫌いになることは、まずない。自分とは合わないなと思っても、その人にはその人なりのコミュニティや生き方もあるだろうし、丸ごと否定する必要はないように思えるからだ。
ただやっぱり、性格や価値観の関係はあるし、多少苦手な人は、いる。
わたしは何故だかこれまで、「ちょっと人には言いづらい話」を他のひとより聞く機会が多かった。
どうして彼・彼女らがはじめにその話を打ち明けるのにわたしを選んだのか詳しいことはわからないけど、繊細な上にアイデンティティに関わる大きな話だから、話すのに相当な勇気を要したことに間違いはないだろう。
だからどうあれ、それなりの信頼をされているのであれば、全力で気持ちに応えてあげたいしサポートもしたい。
苦手というか、見ていてつらい。
別にわたしがその当事者なわけでも何でもないのだけど、大事な友達がその中にいる。だから言葉を聞くと、心の中の柔らかい場所を抉られたような気分になってしまう。
第三者でさえこんななのに、当事者はどんな気になるだろう。「もう慣れた」なんて言うかもしれないけど、刺さる言葉であることには間違いない。
打ち明けた時、取り繕っててもだいたい相手の表情や雰囲気でわかるけどね、とみんなは諦めたように言うのだけど。
そのような言葉を発している人たちだって、別に傷つけることを意図して口にしているわけではない。そんなことはわかりきっている。それだけに難しい。
日頃から口うるさく言ったところで綺麗事なんて笑われるのだろうし、きっとそこまで過敏になることを彼らも望んではいまい。セクマイの人みんながみんな、Facebookの虹色アイコンを良しとしているわけではないということもその典型的な例だ(もちろん推奨派の人の活動で「知ってもらうこと」も大事だけど)。
表現の形はどうあれ、結局みんなは「普通」でありたいと思っているのだと思う。
じゃあ、何ができるんだろう。
結局、当事者でないわたしは話を聞いて、知ることしかできないのだと思う。別にマイノリティだけでなくとも、他の人の生き方や価値観は聞いてみないとわからない。知ったかぶったり決めつけがタブーなのは言わずもがな。
それでいて、発する言葉のひとつや態度のひとつに気を遣えれば十分なのかもしれない。
前まで、マイノリティ理解や支援の活動をもっと進めたいと思っていた。だけど現実的に考えたらいきなりそんなことに手を出すのはなかなか厳しくて。それに、ひとつの側面に力を入れるのも何か違う気がしてきた。
昨今よく耳にする「ジェンダーフリー」は、突き詰めていくと男女の差だけでなく、世界のあらゆる隔たりをなくすことにつながっていく。たぶん、それと同じことだ。
わたしができることは空気づくり、なのかもしれない。今まで空気を読んで、飲み込んできた様々な言葉をオープンに発することができるような空気づくり、空間づくり。結局何事もそこに尽きるような気がする。「ちょっと言いづらいこと」を受け入れるスタンス。
こんな偉そうなことを言ったところで、わたしだって自分のことでいっぱいいっぱいになることはあるし難しい。色んな人の相談にも乗りたいけど、切羽詰まってイライラしてしまうときだってある。さっき書いたことだってあくまで主観でしかない。
わたしは人からどんな風に見られてるんだろう。なんて、鏡を見ながら考えた。
追記:やっと前ブログのストック分を投下し終えました、ありがとうございました。来年からもぽつぽつ書いていきますね。